朗読台本「グリーンスリーブス」 [0:0:1]
夏、今夜は月がいつもより明るくみえています。庭のカバノキはその影を赤瓦屋根に重ねて、しきりにざわざわとうごいています。大通りを風がすりぬけて行きますと、塀の上でうとうととしていたエナガもこれまたざわざわとふくらんで目をとじるのでした。
ドニスもまた、その夜は眠ることができませんでした。いままでそんなことは一度もなかったのですが、今日にかぎってはどうしてかねむくなりません。ぎゅっと目をつぶると、目の前がもやもやとしてきてこれはたまらないと目をあけます。すると今度は机の上の時計に目がいって・・・と、そんな事をくり返しているうちにも、どんどんと夜はふかくなってゆきました。どうしても眠れないと思ったドニスは牛乳をのもうとベッドから起きあがって玄関口までおりてゆくと、床から牛乳のカンカラを持ち上げて、少しだけ中身をすすりました。カンカラからじかに飲むのはあまり良くないことだとドニスは知っていたので、心のなかですこし反省しながら、ドニスはまた部屋にもどるのでした。
ドニスがベッドに入ろうとしたその時、歌声がきこえてきます。ドニスは少しびっくりして、でもきれいな歌声だなあと感心していました。まったくその声はまるで教会の音楽みたいに、やさしくやさしく歌うのでした。
「誰が歌うんだろう」
ベッドからおりて窓のところまで歩き、少し落ちたズボンを一度直して窓を開けると、そこにはいつものルツェルンの町並みがあっちのほうにもこっちのほうにもただただ広がっているだけでした。
「誰だろう」
ドニスがもう一度つぶやくと、歌がやんで「ここだよ」と返ってきました。なんと歌っていたのはその夜まっ白に光っていた月だったのです。月は聞こえるか聞こえないかのため息をひとつつきますと「久しぶりだねえ」とドニスにいうのでした。ドニスは不思議に思って月にたずねます。
「ぼくらは前にもあったことがあるのですか?」
月はしばらく考えてから、低く伸びた声で「いや」と答えます。
「私は君に会ったことがないが、君はよく似ている」
「誰にですか?」
「エブナー。君は本当に彼女によく似ている。彼女に会ったのもちょうどこんなふうな生暖かい夜だった。ひさしぶりだね」
「エブナーって、おばあちゃんの名前だ」
「そうだね」
そこまで話がおわると、月は空よりもっと上の暗闇を見上げて、また歌い出してしまいました。ドニスはその柔らかい声をききながら、おばあちゃんの事を考えていました。
「ねえ」とドニスが呼びかけますと、月が歌をやめ、またゆっくりとドニスを向きました。
「なんだい」
「おばあちゃんってどんな人だったのですか」
「君のおばあさんかい?」
「うん、僕は僕のおばあちゃんの事あんまりしらないから」
「ああ、私も実はそんなに知り合いってわけじゃないんだ」
月の言葉に、ドニスは拍子抜けしてしまいました。その顔を見た月は、びっくりするほど豪快に笑います。
「はっはっは、そういう顔も、彼女にそっくりだよ。私はね、彼女と話した事こそあるが、今思えばそれは私が話を聞いてもらっていただけだったんだ。エブナーは私の話をいつも目を輝かせて聞いてくれたからね。」
「じゃあ、おばあちゃんの事はわからないんですか」
「ああ、私が彼女について知っているのは、彼女が音楽をしていたということだけだよ。この歌も彼女からおそわったのさ。」
そういって月は今度はしっかりドニスに向かってさきほどの歌をまたゆったりと歌うのでした。
「緑のリュートをかかえて、まいにち夜の7時に、彼女は大通りで歌っていたのさ。
だいたい一時間ほどで歌はおわるのだけど、それからしばらく私が空にのぼるまで待って、それから私達は話をしたのさ。」
ドニスは月の話を初めのうちは「へえ」とか「ふうん」とか聞いていましたが、そのうち月の話を頭に思いうかべるのに夢中で、黙ったまま窓の枠にもたれて聞いていました。
「私が一日かけて見てきた風景を、毎晩ね。エブナーの『今夜は何を見たの?』という言葉にさそわれて、色々な話をしたよ。」
ドニスはもう寝ることなんてとうにわすれて、月の話に聞きいっています。
「今でさえ気にしないが、あの頃は私もエブナーに話すことをみつけるのに夢中で、君たちの住む地上の事をきをつけて見ていたんだ。ドイツで上演されたお芝居の話、グリーンランドの子どもたち、ポンペイの墓場通り…
一つ一つの話をみたままに話すとエブナーは笑ったり泣いたり、ほんとうに真剣に私の話を聞いてくれた。私もそれがたのしくてね、ここルツェルンの夜空にのぼるのがまったくまちどおしかった。」
ドニスはおばあちゃんに会ったことがありませんでした。ドニスのお母さんが昔におばあちゃんの話をしてくれた事がありましたが、お母さんはおばあちゃんがあまり好きではないらしくて、貧乏だったとか夢ばかり見ていたとか、とにかく良い話は一つもありませんでした。月がはなします。
「しかしね、いつもどおりルツェルンの夜空にさしかかったある晩、私は大通りにエブナーの姿を見つけることができなかったんだ。いくら探しても、いつもの緑色のリュートさえ見つけられなかったんだよ。」
月はドニスから目をそらして下をむいて黙ってしまいました。
「おばあちゃん、どうしたの?」
ドニスの言葉に、月が歌い出します。今度は少し元気のない感じがしました。
「それ、なんて歌?」月は歌をやめ、またドニスを向きなおります。
「私もしらない。エブナーがいなかった次の晩、彼女はいつもの場所にいてね、私はいつもどおりその一日で仕入れたお話をしようと思っていた。その日はたしかスウェーデンの僧院のお話。しかし彼女が言ったのは思ってもみない言葉だった。『これからは来れなくなるかもしれない』とね。理由はおしえてくれなかったけれど、代わりに初めて彼女は私にむかって歌を歌ってくれたのさ。」
実は、ドニスはその歌を前にも聞いたことがありました。それは古くからイギリスにつたわる民謡で死んだかあさんもよくドニスに歌ってくれたのです。
月はもう一度、その歌を歌います。
「ああ、私の愛した人はなんて残酷な人、
私の愛を非情にもなげ捨ててしまった。
私はながい間あなたを愛していた、
そばにいるだけで幸せでした。」
夜のルツェルンの街に、月のながい声がひびきます。乾燥した空気に夏のぬるい風が吹きぬけて、カバノキの葉をカラカラといわせました。
「憂うつな歌詞だね。その日のエブナーのリュートはところどころ弦が切れていて、いつものようにうまい演奏ではなかったけれど、いつの演奏よりやさしくて、しかしどこか悩んでいるような。私は今もあの声をわすれられないんだ。」
ドニスはきっとおばあちゃんに何かがあったんだなと思いました。
「エブナーはそれからずっと姿を見せなかったよ。私も話し相手がいないんじゃつまらないと、地上を見るのをやめて、ときおり彼女のさいごの歌を思いだしては、口ずさんでいたんだ。」
月がこれまでにないほど落ち込んでいるふうでしたので、ドニスはたまらなくなって聞きました。
「それからおばあちゃんにはあえなかったの?」
月は一度おおきな深呼吸をして「それがね」とはじめました。
「会えたんだ、一度だけ。そのときはこの街にちらほらと雲がかかっていて、ところどころの隙間から街の明かりが飛びだしていて綺麗だなあと久々に下をながめていたんだよ。街にはちらちらと雪がふりかかって地面をぬらしていた。大通りにさしかかった時、雲の切れ間に彼女を見つけたんだ。道に座ってこごえていてね。彼女はボロボロになった見覚えのあるリュートをかかえていた。
『エブナー』
私が呼びかけると彼女はゆっくりと私を見て、なつかしい声で『あら、久しぶりねお月さん、ねえ、またお話を聞かせて』と言うんだ。私はうれしくて、今日は、今日はと話をさがしたけど、なんせ長いあいだ上ばかり見ていた私だ、話すことなんてなかった。そこで私は自分の事を話したんだ。いにしえからずっと空に浮かんでいるこの月の話をね。私の悲しみや苦しみ、永遠の孤独、そしてその孤独を紛らわせてくれたエブナーという女性の事。いつもより長く話していたせいか、全部を話し終わる頃にはもう空のすみっこまで来てしまっていてね、エブナーももうずいぶん遠くに見えていた。小さく見える彼女の体にはたくさんの雪がつもっていて、彼女の抱きしめていた緑のリュートはどうしてか彼女の前に放りだされていた。それが、私と彼女のさいごの話だ。」
ドニスはなにかとても悪い気持ちになりしばらく考えていましたが、ふいにうつむいて家の前の大通りを眺め、またなにかを考えるのでした。
「それでしんだんだ、おばあちゃんは」
ドニスはそんな事を口にするつもりはなかったので、はっとして月を見上げました。すると月は前よりほんの少し明るく光って、なにかとても幸せだというふうに笑うのでした。
「死んでいないんだよ。」
「え、でも。」
ドニスがまゆのあたりにシワをよせると、月はまた豪快にわっはっはと笑いました。
「君は本当におばあさんにそっくりだ。彼女はとても真面目な人だった。真面目で、頑固で、人懐っこくて。彼女にはね、きっとあの時、恋人がふたりいたのさ。」
「恋人ですか?」
「ああ、そうさ。一人めは」
そう言うと月はまぶしいくらいに明るく光って、気持よく歌いだします。
月の歌声はこれでもかとながくのびて夜空をふくらませました。
「あなたが望むものすべてを差しだそう
あなたの愛が得られるなら
この命も土地のすべても差しだそう
私の家来はすべて緑に身をつつみ
彼らはこれまで貴方につかえてきた
それらはすべて紳士的で親切だったが
それでもあなたは私を愛してはくれない
グリーンスリーブスはわたしの喜び
グリーンスリーブスはわたしの楽しみ
グリーンスリーブスはわたしの魂そのもの
私のグリーンスリーブス、あなた以外に誰がいようか・・・緑の袖は、彼女の音楽だよ。」
月はやっぱり少しさみしそうにして、一人ものおもいにふけってしまいました。ドニスもつられて苦しい気持ちになります。
「おばあちゃんはつらかったでしょうか」
すると、とうとう月も黙ってしまい、しばらくまた夏のゆるい風が吹き抜けていくのでした。
さて、月がほどほどに西へ傾いた時、ドニスはふたりめの恋人のことを聞いていないなとおもいました。
「ねえ、ふたりめは?」
すると月も忘れていたようで、ドニスに顔をむけると「ああ」と漏らしてまたとても幸せそうにするのでした。
「うまくやったねエブナー。今夜は君にあえてよかった。」
「え?」
「ドニス君だったね、君はまだわかいからこれからたくさん恋人ができるだろう。それは君が本当に愛した人であり愛したものだ。ドニス君。不安になった時こそ自分を信じなさい。自分が愛した恋人を信じなさい。そうすればきっと、恋人も君を愛してくれるさ。」
「え、どういうことですか」
月はもう、体を半分くらい地平線に埋めて、ドニスに呼びかけます。
「緑の袖だって、私にとってはこうして素敵な思い出になっているのだから、安心して好きなものを愛しなさい。もしものときは、君の恋人をこうして私が引きうけよう。」
そこまで言うと月はご機嫌に歌いながら、夜空の奥へとしずんでゆきました。
独りになったドニスが眺めた窓の外、太陽の気配がしめった薫風をはこんできます。
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